「AIが人類の能力を超える日」って、結構議論になっていますよねぇ。
どっかの映画みたいに人類が滅ぼされちゃうんじゃないかとか・・・
可能性がゼロかといえば、そんなことはなくて、それは道具としてのAIの使い方なのでしょうね。
たとえば、燃料の採掘から原料の採掘・供給、機器の製造から修理まですべてを一貫して行う戦闘用AIなんてものを作れば可能性はあるかもしれません。
でも、単純に考えれば、今のコンピュータは既に人類の能力をはるかに凌駕しています。
足し算、引き算、割り算、掛け算をはじめ。ほとんどあらゆる計算において人間にはできないレベルの計算をごくごく短時間で処理してくれます。
今、AIと称して発表されているディープラーニングは、ただのデータマイニング(大量のデータから情報の特徴を抽出する)の発展形でしかありません。そして、「学習」と「学習結果の活用」は別のプログラムです。
「学習」から「学習結果の活用」までを一貫してくりかえし、自己学習するプログラムができたとしても、「学習のアルゴリズム決定(過程の設計)」ができるプログラムはまだ存在していないと認識しています。
もちろん、コンピュータにも、あらかじめ与えられえたいくつかの方式から最適なものを選択することはできるでしょう。
でも、自分で設計することはできないのです。
コンピュータが道具であるように、本当の意味でのAI(汎用AI)ができたとしても道具にすぎません。
将来的にはAIが自分を生命と定義し、人権を要求してくるかもしれませんが、それを認めるかどうかはその時の人類の総意で決まることでしょう。
私の見解としては、道具職人が「俺のスパナには魂がこもっているから人権を認めろ」と言っているのと同じにしか思えませんが・・・
AIは人間が会社や社会の一部として機能しているように、汎用AIができたとしても目的に特化した「会社や社会の一部として機能」するだけだと思うのです。
AIにどこまでの権限を与えるのか、そこをコントロールするだけのことだと思うので、何でもかんでもAIに任せてAIに滅ぼされてしまうということは、「独裁者にすべての権限を与えて、全部一人でできる様にする。」と言っている意味ですよね。
まぁ、一部の人たちが心配しているようなことは「ない」でしょうね。
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- 2017/08/16(水) 12:44:00|
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